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「大工の命を守っていたからこそ、力がある。」

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新潟県 新潟市 沼垂テラス商店街で聞けたことば 「大工の命を守っていたからこそ、力がある。」 沼垂テラス商店街で足場板を使ってオーダー家具を作る杉﨑潤さんのことば( 38 ) 2018 年 父の転勤先だった名古屋で生まれ、保育園の時に新潟へ。 大学は福岡だったが、大学卒業後から現在に至るまでずっと新潟に住んでいる。 今は新潟の沼垂テラス商店街で、工事現場で使用されていた足場板を使ってオーダー家具を作る。 足場板とは、建設などの工事現場で作業する際の作業板のこと。 職人が使い古したものは、ペンキで印が付けられていたり、傷がついていたり。 味わいのある内装用材料として、DIYにもよく使われるという。 潤さんのお店で売っていた足場板を内装に使った雑貨屋さん 床や商品棚として使われている。 今 の職につく前は、ラーメン屋、清掃業、内装業など、様々な仕事をしてきた。 あまり一つのところに留まることはなかったが、だんだん自分で何かやりたい、手に職をつけたいと思うようになった。 その時できたことは、内装業で経験したことのある溶接だった。 鉄の溶接などで家具を作る際、足場板を求めて沼垂テラス商店街に来たのが、 今やっている店との出会いだという。新潟で唯一、足場板を扱う店だ。 工事現場では大工さんの命を守っていた作業床である足場板。 それを次は人々の生活を守る家具に作り変えている。 はじめは自分の製作したものを見せに置いてもらっていたが、去年の4月からはオーナーを引き継ぐことになった。 以前の職歴について、自身では「どれも長続きしなかった」と話していた。 たしかに一つのことを続けられるのもすごいことだと思う。 しかし、一度しかない人生で多様な仕事を経験している潤さんだからこそ、話してくださることばにパワーを感じた。 「大工の命を守っていたからこそ、力がある。」 私が新潟から帰ってきても、心に残っていることばだ。 それは、一つの板でも「作業床」という顔だけで終わらない足場板と、 一回の人生の中

「助けをもらっていいし、迷惑かけてもいいし、でもその代わり誰かを助けなきゃいけない。」

宮城県 本吉郡 南三陸町で聞けたことば 「助けをもらっていいし、迷惑かけてもいいし、でもその代わり誰かを助けなきゃいけない。」 横須賀市出身で、震災をきかっけに南三陸へ移住した野田篤秀さんのことば( 26 ) 2018 年 幼少の頃は、電気やガス、水道が止まることは当たり前だと思っていた。 友達と話していて、それが普通ではないと早々に気が付いた。 ライフラインがない中でいかに工夫して過ごすかという知恵は身についたが、 友達と比べて、裕福な家庭ではないことにコンプレックスを感じたこともあった。 篤秀さん(以下、篤さん)は昔から、自分が「普通の人と違う」という意識を強く持っていた。 「普通」の定義は人それぞれだと思うが、篤さんは人と違うことに特に敏感で そのことをマイナスに捉えてしまっていたという。 ところが、その「人とは違う」ところが強みとなる場面がやってくる。 東日本大震災が起きたのは篤さんが大学 1 年生の時だ。 電気もガスも水道も止まっている土地では、幼少期の経験が役に立つかもしれない。 自分の目、足を使って現地を感じておか なければと、 震災が起きた年の 8 月に大学のプログラムで初めて南三陸に訪れた。 実際に足を踏み入れるとあたり一面瓦礫の山で、泥をかき分け、 少し掘り進めるのにも何時間も必要だった。 電気、ガス、水道がない状況でも大丈夫だと思っていたが、自然を相手に一人の人間の無力さを痛感したという。 一人でできることなんて限られている。 そして今回の震災のように、想像を超えることがこれから先も待っているかもしれない。 自分たちの常識、つまり「普通」だと思っていることが通用しなくなった時、 一人ではできないことを認識してお互いに補い合っていくことがとても大事だと思った。 自分が「普通」ではないと思う部分は誰かに助けてもらう。 その代わり、誰かが足りていない何かは、「人とは違う」自分が補うのだ。 一人でちゃんとしなさいという世の中ではなく、 できないことをできないと言い、助けを求められるようになればいい。 そんな

「大槌で生まれ、大槌人として、大槌町の人口として育ったから。」

岩手県 上閉伊郡 大槌町で聞けたことば 「大槌で生まれ、大槌人として、大槌町の人口として育ったから。」 東京で就職したが、震災をきっかけに地元に U ターンした 大羽美年さんのことば( 28 ) 2016 年 これは大槌町だけに向けられた、閉鎖的なことばではない。 美年さんと話せば話すほど、そう感じられた。 ずっと憧れていた東京での日々は忙しかった一方で、楽しくて充実していた。 上京する時には、長男だからいつかは大槌に戻って来るとは思っていたものの、実家の釣具屋を継ぐ気は全くなかった。 むしろ実家が釣具屋なのに、小さい頃から野球一筋だったため、釣りに関しての知識はゼロだった。 しかし、東日本大震災が起きて地元の状況は一変した。 家族は無事だったが、釣具屋は津波で流されてしまった。 「流されたけど、それでも店を再建したい」と父から話を聞いた時、美年さんは腹をくくったという。 自分も釣具屋を手伝う、そう決めてからはあっという間だった。 大槌に帰ってきて3日後には船の免許を取得するため仙台へ。必死に勉強し、試験は見事一発合格。 現在の釣具屋は主にお父さんが釣り船の斡旋などで海に出て、美年さんが釣具屋の店頭にたっている。 お客さんとの会話も、釣りの知識を吸収できる絶好の場だという。 「大槌」への想いは、震災をきっかけに濃度を増していると感じられる。 U ターンを決めた 2011 年から 5 年後の 2016 年に美年さんは結婚した。 そして去年、 2017 年には長男が生誕。 大槌町という土地で新たなステージに足を運び、 先祖代々受け継がれてきたものを子供の世代まで残したいと思うようになった。 大羽家の長男として、釣具屋として、大槌町民として、若者が住みやすい町、来たいと思う町はどうすれば作れるのか。 東京での経験を踏まえて考えているという。 「大槌町で生まれ、大槌人として、大槌町の人口として育ったから。」 うちに向けられた、閉鎖的、排他的なことばではない。 外から来た者は大歓迎してくれるし、都会の良